河合ゆうきのこと

河合ゆうき②自分を信じなかった後悔から学んだ中学時代

河合ゆうきです^^ 私の生い立ち、マイストーリーを綴っています。 河合ゆうき①誕生~小学生:子供らしくいられなかった子供時代   音楽、仲間との時間、初めての経験をする楽しさを知る 小学校で合奏クラブ、楽器演奏と合奏の面白さを知ってしまった私。 中学で何が楽しみだったかといえば、もう部活だけでした! なので、中学校生活は、学業というよりも、 私の中では部活が楽しくて学校に通っている感じでした。 楽器も憧れの先輩と同じパートを選びテナーサックスに。 (本当はアルトサックスが良かったけど、それは結局どっちでも良くなる) 両親に頼み続けていたので、My楽器も手に入れました。 買うならいいやつを買おうと父が真剣に私の楽器購入をサポートしてくれたことがうれしかった。 演奏することももちろんですが、 部活の先輩と過ごす時間、部活の仲間と過ごす時間、すべてが楽しくて充実していました。   そんな中、中学2年になると生徒会の役割をすることになりました。 生徒会も楽しかったのですが、思うように部活に参加できなくなっていきます。 部活と生徒会で時間は目一杯だったけど、 その時しかできない事を、私は楽しんでいたと思います。 このころから私は、何か初めてのことを経験すること、そこから何かを学ぶことが楽しいと感じていました。 成長できる環境、新たな挑戦が好きだと気づいたのでした。 生徒会も好きだけど、やっぱり吹奏楽部への思い入れは強く、私は吹奏楽部の部長をやりたいと思いました。 大好きな吹奏楽部で何かを成し遂げたい、 その当時から後輩にしたってもらえる強みもあったので、 みんなの士気を高め、コンクールに挑みたいと思っていました。 自分の力を信じることができなかった選択 そんな中、生徒会副会長の役が決まり、私としては迷いが生まれます。 2年生の時の経験で、生徒会にどれくらい時間が割かれるかを知っていたので、 その状態で部活を率いることができるかを考えました。 吹奏楽部への情熱は部内一といえる自覚はありました。 だけど、不在になることが多くなるなら、 私よりも部活に参加できて、部内を見渡せる人の方が部長に適任では? と考えたのです。 忙しそうで不在がちな部長より、部活に常にいてくれる、 頼れる部長の方が部員も安心だろうし、練習を進めるのもいいだろう。それが部活の為だ。 そう思いました。 と同時に、 不在がちでも熱意や情熱があれば、部内の士気を高め、部を引っ張れるのでは? 私にはできるんじゃないか? という想いもありました。 そんな葛藤を持ちながらも、私は生徒会の活動に専念し、 部活は縁の下の力持ち的な役割で参加することを決めたのでした。 この時、私の中では、 一番やりたかったのは部活の部長でした。 だけど、それを現実の状況に合わせて、私は選びませんでした。 その結果、私は人生で初めて、ものすごく後悔することになったのです。 生徒会後に参加する部活の雰囲気は徐々に悪くなっていく。 誰も練習していないこともありました。 え?何してるの?みたいな。 後輩から、何をしたらよいかわからないと言われ、 練習について各パートに提案や、メニューを伝えるものの、 コンクールに向けての練習の意欲がみんなバラバラで、どこに向かっているのかわかりませんでした。 部長は練習を見るでもなく、自分のパートだけ。 それでも、部活中喋っていることがほとんどで、合わせの練習はほぼしていないと後輩から伝えられる。 どうしたものかと悩みました。 そんな状態なので、いざ合わせをしても・・・。 顧問からも怒られるばかり・・・。 私にできる事は必死にやっていたけれど、 自分のパートと、関連パートの士気を高めることが唯一できること。 提案やアドバイスもしてみるものの、そんなに目立ったことはできずにいました。 その結果、 吹奏楽部は、空中分解寸前。 私は何をやっているんだろう? その当時、毎日そう思いながら、生徒会を終えて部活に参加していました。 そして、とどめの一言が部長から発せられたのです。 「私は部長をやりたくはなかった」 「え、立候補してたじゃん?」と私の心に衝撃が走りました。 「言い訳なんかいらないから、何とかここからでも頑張ろうよ。」 そう思いまいした。 そして部長は部活に来なくなりました。 私は当時どうしたらよいか、全く分からなくなりました。 だけど、コンクールにはエントリーしている。 できる限りはみんなで何とかしないと・・・。 その夏の演奏は、正直酷かったと思います。 個人のレベルの問題ではなく、息を合わせることができずにいました。 私は自分が情けなくなり、 私は生徒会も部活も両方できたのでは? むしろ生徒会をほかの人にやってもらえるようにすればよかったんじゃ? と色々考えました。 そう、後悔ばかりで、悔しくて悲しかった。 もっと自分を信じればよかった。 私だったら絶対もっとやれたよ。 そう心から想いました。 そして、私は高校では部活にすべてを注ぐと決めました。 その為に、部活で高校を選ぶことになったのです。 私の人生のライフワークに繋がる原点との出逢い ここで、中学の時、私にはもう一つ大きな出来事がありました。 私には、保育園時代から、知的障害と共に生きる友人がいました。 普通の保育園に通い、小学校も特別支援学級に通いながら、普通学級に所属していました。 そして中学も同じように進学していました。 私としては、それはごく当たり前でした。 だからその当時は、彼女の両親がどんな思いで、私たちと同じ生活を選んでいたかは、わかっていませんでした。 そんな彼女が、中学2年の時、 特別支援学校へ転校することになりました。 当時は養護学校と呼ばれていました。 私はその時、どうしてそうしなければならないのかがわからず、 担任の先生や、特別支援級の先生に色々尋ねました。 その当時、勝手に先生たちがそう仕向けたと思ったくらい、理解ができなかったのを覚えています。 現実問題として、普通級のクラスには、 私たちとは違う考え方や、彼女を受け入れられない雰囲気もありました。 だから転校させるんじゃないのか? とその当時は思っていました。 そうして特別支援学校に転校した彼女。 その後私は、学園祭や、行事の度に支援学校に行くようになりました。 そこで目にする学校の姿、教員の姿に、私はものすごく衝撃を受けたことを覚えています。 私がイメージしていた学校とは違ったからです。   そこでは、彼らが社会で生きていくための勉強をしていました。 そして障害と呼ばれる彼らの個性をどう活かしていくかを学んでいました。…

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河合ゆうき①誕生~小学生:子供らしくいられなかった子供時代

朝からブリスベンのラジオ局が、 私の好きな曲(思い出深いともいう)ばかり流すので、 とっても気分がよく、今日は良い日にしかならないと感じています。 そんな本日から、 改めて私のことを書いてみようと思います。 あれこれと書いていますが、生い立ちですね。 何せ、書きながら色々思い浮かぶこともあるので、 その時はその流れに合わせて色々アップしていきます! おつきあいよろしくお願いします! 妹の入院生活の中、しっかりしなくちゃと静かに誓った幼少期 1986年7月12日。 私は東京都練馬区で、河合家の長女として生まれました。 ゆうき という名前は、第一子は男の子だと思っていた父と母が考えていた名前。 両親は女の子だったけど、結局そのまま名づけたのでした。 私の誕生は、田舎の村の祖父母の初孫として、親戚一同から祝福されていました。 実家に残る写真を見るとそれがよくわかります。 (今見るとなんか感慨深いものです、それだけでウルウルしてしまう・・・) そんな私、1歳までは髪の毛が薄く、坊主。 女の子らしい服装でなければ、男の子に間違えられるような赤ちゃんでした 私が1歳になるころ、 両親は私を連れて、東京ディズニーランドへ旅行に行くようになります 都内に住んでいるけど、ホテルに泊まってディズニーを楽しむ。 この旅行は、その後長野に引っ越してからも、我が家の恒例の家族旅行になります。 2歳になると、父の会社の転勤によって、長野県の伊那市へと引っ越します。 そう、私は東京生まれ、長野育ちです。 長野県に引っ越し、私には2人の妹が生まれます。 3歳離れた次女である妹は、小児喘息とアトピーがありました。 1歳過ぎから入院がちの生活に。 この頃の記憶を私はよく覚えています。 可愛そうな妹。 大変そうな両親。 だから、私はしっかりしてなくては!と、子供ながらに両親を支えることを誓うのです。 そう、アダルトチルドレンのスタートでした。   本当は泣きたかったり、甘えたかったりしたことも、 ぐっとこらえて、可愛そうな妹、大変な両親の為に頑張るお姉ちゃんだったのです。   妹が入院中は、保育園の送り迎えをする人もいないので、 家で留守番、または父の会社についていくなどしていました。 そんな感じで私は、4~5歳の頃から、真面目で面倒見の良い長女を生きていました。 時間割は自分たちで作る、総合学習のさきがけの小学校での6年間 私が通った長野県伊那市立伊那小学校。 当時は総合学習のさきがけの小学校でした。 時間割も自分たちで考え、総合学習のテーマもクラスによって様々。 1年生は日本のお祭りごと。 2~3年生はスイミーの演劇を老人ホームで講演ボランティア。 4~6年生はリサイクルを調べる、資源回収で資金を集めて車いすを寄付。 と様々な活動をしました。 そして、どの学年でも、私は担任の先生に恵まれ、今でも心から尊敬している大人たちの元に育ちました。 友達にも恵まれ、充実した小学校生活。 幼少期の決意話変わらず、しっかり者の長女な私。 児童会長とかもやりました。   小学校時代は、総合学習で 自分で調べる、取り組む、生きる力 を学びました。 自分で興味があること、知りたいことをどうやって知るか? その当時はインターネットなんて無かったので、 電話調査や、実際に見学に行ったり話を聴きに行ったりしました。 電話一つかけるにも、セリフを考えて書き出し、 10円玉を積み重ねた学校内の公衆電話から、 代表の周りにみんなで耳をくっつけながら電話をしていました。 どれもドキドキするけど、ワクワクして、楽しかったのを覚えています。 ドッジボールで長野県1位になった経験もあり、日々の時間割はいかに体育と総合の時間を増やすか! をみんなで考えていたし、全て1つ1つが、その後の人生の基礎にあるように思います。 そして、中学校に繋がる部分としては、 高学年の時に、合奏クラブに入り、音楽がますます好きになります。 中学校では吹奏楽に入ろう!と決意。 小学校5年の時から毎日のように 「中学では吹奏楽部に入る、今から誕生日もクリスマスもプレゼントはいらないから、マイ楽器を買ってほしい」 と伝えていました。 そして、吹奏楽部へのワクワクを胸に、私は中学生になるのでした。     振り返って書いていみると、 改めて気づくことってありますね。 当時、妹のことを可愛そうって思っていたのですが、 だんだん、自分も可愛そうだなって思うようになっていました。 だから、頭では 「妹はアトピーと喘息だし、妹がなりたくてなったわけじゃないから仕方がない」と わかっていても、心では妹への嫉妬や、嫌いという感情が湧くこともありました。 そんな気持ちを、小学生まで抱えていたと思います。 それが変化したのは、小学校で出逢った友人のおかげです。 末っ子で下に姉弟のいなかった友達が、 私の妹をとても羨ましがって可愛がってくれたこと。 私にしたら、その友達には、お兄ちゃんもお姉ちゃんもいて羨ましかったのだけど、 みんな無いものねだりなんだなぁって小学生ながらに感じたのです。 だから、私には妹がいて良かったなって思うようになっていきました。 アトピーも喘息も早く良くなったらいいな。 いじめられずに学校を楽しめたらいいな。 と思えるよういなっていきました。 今、30代になって、三姉妹って本当に面白くて楽しい。と感じています。 性格もそれぞれだし、やっていることも、生き方ももちろん違う。 だけど、みんなこの家族が好きで大切なことが分かっている。 大人になるからわかることってありますね。 そんなこともこの振り返りと共に感じたいと思います。